
<メーカー訪問>
ボーイング・ヘリコプター社 ![]()
1940年代初め、アメリカのフィラデルフィアで何人かの若者たちが技術開発グループを結成した。いずれもペンシルバニア大学当時のクラスメートで、中心にいたのはフランク・パイアセッキとハロルド・ヴェンジ。グループの名前も2人の頭文字を取ってP-Vエンジニアリング・フォーラムと名づけられた。
彼らは勤務があるため、夜か休日に集まってよく売れそうな実用品を開発しようと、さまざまなアイディアを出し合った。その中には真空掃除機や自動洗濯機などの提案があったが、最後にパイアセッキがヘリコプターの開発を持ち出して、全員が奮い立った。実はパイアセッキ自身、子どものときから模型飛行機をつくるのが好きで、高校を出たあとは大学へ通うかたわらオートジャイロや飛行機のメーカーで仕事をしていたのである。
しかし当時はまだ実用的なヘリコプターは存在せず、ドイツのフォッケ・アハゲリス機が軍用機として採用されるかどうかの時期であり、シコルスキーVS-300は試験飛行の最中だった。
したがって今ここでヘリコプターの開発に成功すれば、歴史的な業績を挙げることができる。フォーラムのメンバーは早速、PV-1の設計に取りかかった。この設計案の面白いところはシングル・ローター形式でありながら尾部ローターがなく、エンジンの排気ガスでファンを回し、その気流をテールコーンの後方から噴射して反トルク力を得るというものだった。まさに現代のノーター機である。しかし噴射機構の製作に手間取って実機の完成には至らず、次のPV-2は普通の尾部ローターを採用することになった。
PV-2は1943年4月11日、パイアセッキ自身の操縦で初飛行に成功した。このときパイアセッキは固定翼機の操縦経験が14時間だけで、ヘリコプターを飛ばすのは初めてだった。しかし、その飛行ぶりは見事なもので、半年後にはワシントンに飛び、軍の最高幹部の前でデモンストレーション飛行をして見せた。
パイアセッキの操縦で飛ぶPV-2ヘリコプターその頃、沿岸警備隊は海難救助のためにヘリコプターを使いたいと考えていた。しかし、パイロットや燃料を含めて少なくとも800kg程度の搭載量が必要と計算され、そんなヘリコプターは無理と見られていた。それに対してパイアセッキの考えたのがタンデム・ローター形式のヘリコプターである。
1944年初めパイアセッキは沿岸警備隊および米海軍の連名による注文を受け、新しいヘリコプターの設計に着手した。そこから生まれたタンデム・ローター機PV-3が初飛行したのは1945年3月7日。海難救助の要求に応えて、当時としては最大のヘリコプターであった。
形状は胴体の真ん中から後方が折れ曲がるようにはね上がっていて「空飛ぶバナナ」と呼ばれた。これは前後のローター間隔に余裕を持たせるためである。同機は沿岸警備隊のほか、米海軍や海兵隊がHRP-1の呼称で進攻輸送用に採用、合わせて22機が生産された。
全長は16.7m、総重量3,133kg、エンジン出力600hp。キャビン内部は支柱などの障害物がなく、広々としていて、兵員8人または負傷兵の担架6人分を搭載することもできる。この成功によってタンデム形式に対するパイアセッキの抱いた固い信念は、後のバートル社にも受け継がれ、半世紀余を閲した今に至るも変わりはない。
海軍はさらに1945年、艦船搭載用のコンパクトなヘリコプターの開発要求を出し、シコルスキーのシングル・ローター案とパイアセッキのタンデム案が競争した。その結果、パイアセッキに軍配が上がり、1950年HUP-1が初飛行する。バナナ機と異なるところは胴体後部の上方への湾曲がなくなり、その代わりに大きなパイロンが尾部についた。その最頂部に後方ローターが取りつけられ、前後のローター回転面が少しずつ重なり合うようになった。あたかも今のチヌークを小さくしたような外観だが、実際は6人乗りの小型機で、エンジンはピストン単発の550hpであった。
やがて同機の評価試験によって量産型HUP-2が完成、海軍に続いて陸軍もH-25Aミュールの呼称で採用した。特徴はヘリコプター初のオートパイロットをそなえたこと。1950〜53年の朝鮮戦争では負傷兵の救出に活躍、1952年のコロンビア洪水でも吊上げホイストを使って1万人以上を救助した。また史上初めて宙返りをしたヘリコプターとしても知られる。それだけローター・ハブが頑丈だったわけだが、改良型はHUP-4まで進み、総計430機以上が生産された。
HUPヘリコプター一方、当初のHRPバナナ機はH-21へ発展する。エンジン出力は一挙2倍以上の1,425hpに増強され、頑強な働き者を意味する「ワークホース」と呼ばれた。総重量は6,810kgで、兵員20人の搭載が可能。米空軍はこれを214機採用し、陸軍も334機を調達、改良を重ねてベトナム戦争でも使われた。
さらにドイツ、フランス、スウェーデンの各国軍が採用し、日本でも1960年(昭和35年)航空自衛隊に10機のH-21Bが救難用に供与された。しかし中古だったために老朽化がひどく、7年後に除籍された。これら国外向けも含めると、生産総数は707機になる。
それに続くPV-15(YH-16トランスポーター)は後のV-107やチヌークの祖形ともいうべき大型タンデム機で、史上初の双発タービン・ヘリコプターである。胴体長23.7m、各ローターは直径25mという大きさで、1953年10月23日20分間の初飛行をした。銀色に光る巨体がゆっくりと大地を離れ、しばらくホバリングをしたのち、前進や横進飛行をするさまは「まるで海の客船が空に舞い上がったよう」に見えたという。
キャビンはダグラスDC-4輸送機に匹敵し、兵員40人または担架16人分、もしくはジープ3台を搭載することができる。エンジンは当初R-2180ピストン(1,650hp)2基だったが、出力不足のためアリソンT-38ターボシャフト(1,800shp)2基に換装され、1955年7月YH-16Aとして初飛行した。翌年には、当時として最も速い267km/hという非公式記録をつくっている。
しかし同年末、YH-16は試験飛行中に後部ローターシャフトが故障し、前後のローター回転数が不釣り合いとなって墜落事故を起こした。これで米空軍や陸軍の期待を集めた計画も破棄されてしまった。
H21ヘリコプターパイアセッキ社がバートル・エアクラフト社となったのは1956年である。4年後の1960年には、ボーイングの傘下に入ってバートル事業部となり、1972年ボーイング・バートル社として別法人に変わった。
この間、同社ではV-107の開発に成功、1958年8月12日の初飛行いらい、561機以上を生産、米海軍や海兵隊のほかカナダ軍や民間会社でも使われた。ほかに川崎重工が1962年から160機をライセンス生産した。これらは3自衛隊の全てに採用され、民間機としても旅客輸送や物資輸送に使われたほか、サウジアラビア、スウェーデン、アメリカ本国などへ輸出され、今も飛んでいる。
本機に関して筆者が忘れられないのは、1962年秋、ニューヨーク・エアウェイズが旅客輸送に使い始めて間もないV-107に乗せて貰ったことである。摩天楼群を眼下においてニューヨーク上空を飛びながら、コクピットを覗くとデッカ航法装置がそなえてあり、帯状の地図を巻き取りつつ、その上に航跡が描かれてゆく。これで天候の悪いときでも飛ぶことができるし、後に証拠が残るから道草を食うわけにはいかないというのがパイロットの冗談まじりの説明であった。
このV-107につづいて、バートル社ではさらに大きなCH-47チヌークが誕生した。初飛行は1961年9月21日。高出力のターボシャフト・エンジン(4,168shp)2基を尾部パイロン左右に装備、搭載量は最大12トン、総重量25トンに達する。
この大型機は1968年から総計1,160機以上が生産された。日本でも川崎重工が1984年ライセンス生産に入り、CH-47Jの呼称で陸上自衛隊と航空自衛隊向けに65機以上を製造している。
KV-107ボーイング・バートル社に関して、筆者がもうひとつ想起するのは「HLH」と呼ばれるヘビーリフト・ヘリコプターである。いつぞや工場見学をしたとき、格納庫の片隅に見上げるばかりの巨体が寂しげに残されてあった。
1960年代後半、米国防省は陸軍の機動力強化の方針を打ち出した。しかも当時、ソ連にはペイロード10トンを超えるミルMi-6が存在し、ほかにも続々と大型ヘリコプターが登場しつつあった。そうした対抗意識もあって、ペイロード20トン級の輸送用ヘリコプターを開発する計画が立てられ、ボーイング・バートル社とシコルスキー社の競争設計がおこなわれた。
その結果、重量物の搭載にはバートル社のタンデム案が有利と判断され、採用された。同機はモデル347と呼ばれ、1971年5月に決まった設計仕様は、総重量70トン、ペイロード22トン、全長28m、高さ11mという大きなもので、エンジンはアリソンT701(8,079shp)を3基装備、操縦系統にはフライ・バイ・ワイヤを使うことになっていた。米陸軍は、これをXHC-62と呼んで、戦場での戦術輸送に当てる予定で、したがって航続距離は40km程度と短かくなっていた。
しかし試作機の完成が近づくにつれて、将来量産になった場合、1機あたり300万ドル程度で調達可能かといった費用効果の問題が提起され、1974年10月計画中断に追い込まれた。それから10年近くたって、1983年に作業が再開され、85年の初飛行をめざしたが、再び中断となり、結局この巨体が地面を離れることはなかった。
ヘビーリフト・ヘリコプターその後バートル社はボーイング・ヘリコプター社となり、全複合材製の高速実験機360を飛ばした。V-107と同じような大型タンデム機で、巡航速度360km/hの記録をつくっている。さらにベル社と共同でV-22ティルトローター機を開発、シコルスキー社との間ではRAH-66コマンチの開発に当たり、今ではマクダネル・ダグラス社との合併に伴ってAH-64アパッチ攻撃機の生産も手がけるに至った。
だが、バートル社の真骨頂は何といってもタンデム・ローター機にある。先にも述べたように、タンデム形式は重心位置の範囲に余裕があり、円板荷重も軽くなる上に、エンジン出力の全てを2つのローターで利用できるので、重量物の輸送に適する。したがって大型ヘリコプターに適した方式というのがパイアセッキ以来の理論であり信念であった。
これに対して、全長が大きくなり過ぎるとか、機構が複雑でコストがかかるなどの反論もあるが、タンデム機の実用性は長年の大量生産実績がよく証明しているといえよう。さらに構造上はキャビン内部が広く取れるし、操縦反応が鋭敏で、こまかな舵がよく効き、横風にも強いといった特徴が挙げられる。
技術開発をめざして奮い立った若者グループの斬新な着想と理論がタンデム・ローター・ヘリコプターを実用化し、ここまで大きく成長させたのである。
パイアセッキ、バートル、ボーイング・ヘリコプターの
足跡と各機の初飛行年1940;PV-1(設計のみ)
1943:P-Vエンジニアリング・フォーラム社設立
1943:PV-2
1945:PV-3フライング・バナナ(HRP-1)
1946:パイアセッキ・ヘリコプター社
1948:PV14(XHJP-1:HUP原型機)
1949:H-21ワークホース
1949:HUP-2
1953:PV-15トランスポーター(YH-16)
1955:YH-16A
1956:バートル・エアクラフト社
1958:V-107
1960:ボーイング社バートル事業部
1961:CH-47チヌーク
1972:ボーイング・バートル社
1981:ボーイング・バートル234(民間型チヌーク)
1985:ボーイング・ヘリコプター社
1987:ボーイング・バートル360(全複合材試作機)
1989:V-22オスプレイ(ベル社との共同開発)
1995:CH-47J(川崎重工との共同作業)
1996:RAH-66コマンチ(シコルスキー社との共同開発)
1997:マクダネル・ダグラス社との合併でAH-64アパッチの製造権取得
チヌーク・ヘリコプター(西川 渉、『航空情報』2003年11月号所載)
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