<リンドバーグと断眠>
寝 正 月 ![]()
かつて会社勤めの忙しかったときはいつも寝不足で、年始には寝正月を決めこんだものだった。けれども、わずかな間に1年分の寝溜めをするわけにはゆかず、生あくびを噛み殺したような日が続いた。
しかし最近は毎日が寝正月のようなもので、あくびが出れば昼寝でも何でもして、夜は明け方まで作文をつづけるようなことになってきた。とはいえ家人がそんな不規則は体に悪いと口やかましく言うので、そうそう出鱈目ばかりしているわけではない。
今年は寝正月ですごす人が多いらしい。初詣の人出も例年の3分の1という。理由は不景気だからだそうだが、何年か前までは不景気だからこそ「神頼み」で神社仏閣にお参りする人が多かった。神に見捨てられたというが、最近は人が神を見捨てるのだろうか。
ところで、昨年暮れの英『エコノミスト』誌が睡眠について面白いことを書いている。近代社会は人工の明かりが普及した結果、人びとの睡眠時間が100年前にくらべて1時間半ほど少なくなった。つまり誰もが睡眠不足のまま日々を送っているわけで、最近の若者が不機嫌なのもそのためという。彼らは大人より多くの眠りが必要であるにもかかわらず、大人より遅くまで起きていて、翌日は学校や勤めにゆくために早く起きなければならない。そういう矛盾の中で生活しているからだとか。
不機嫌ならばまだいいけれど、たとえば1986年1月スペースシャトル・チャレンジャーが打ち上げ直後に爆発して宇宙飛行士7人が全員死亡した事故も、管理者たちが前の晩ほとんど眠ってなく、悪天候にもかかわらず発射を強行して事故に至った。この判断の間違いも、睡眠不足のせいだったらしい。
また1986年のチェルノブイリ原発事故や1979年のスリーマイル原発事故も夜間に起こったが、そのときのオペレーターは睡眠不足と疲労状態で働いていた。
日常の交通事故なども、運転者が眠くて起こすものが多い。米国の調査では、交通事故の半数以上が運転者の疲労によるものという。睡眠不足のために疲労が激しくなると、判断力が低下して、自分ではむしろ正常であると感じるようになる。こんな状態でトラックを運転していたり、航空管制業務をしていたりすると恐ろしい事故につながる。大きな管制室などはレーダーを見るために薄暗いところが多いから、眠気を催さぬように注意しなければならない。
スペースシャトル・チャレンジャーの事故が起こったときはアメリカを旅行中であった。
朝ホテルを出ようとすると車の運転手が事故が起こったらしいというので
慌てて引き返し、恐ろしい光景をテレビで見たのを思い出す。
その事故原因が睡眠不足だったとは。睡眠不足が生物の機能を低下させることは確かで、シカゴ大学の有名な実験は、浅く水をはった水面上の板にネズミをのせ、ネズミが眠ろうとすると板を傾ける。ネズミは目を覚まして水の中に落ちないように体を支えなければならない。このような断眠状態を長く続けると、やがてネズミは衰弱し、意識がもうろうとなり、普段よりも多く食べながら体重が減って、体温が低下し、2〜3週間後に死亡する。
しかし同じ状態に置きながら、睡眠を妨げないようにしたネズミはいつまでも生きていることができる。
人間の場合も拷問や刑罰に断眠が使われた。人間から眠りを奪ってしまうと、その人は頭がぼんやりし、混乱し、暗示を受けやすくなり、最後は死んでしまう。
では何故、眠らなければならないのか。かつては体を休めるためと考えられていたが、そんな単純なことではないらしい。最近の研究では、睡眠は免疫系の機能を正常に維持するためという考えが出てきた。徹夜をしたり、飛行機で長時間の旅行をしたりすると風邪をひきやすくなるのもそのあらわれである、と。
チャールス・リンドバーグも、かろうじて睡魔の手を逃れた1人である。1927年、大西洋を単独で横断したとき、最大の問題は睡魔であった。有名な『翼よあれがパリの灯だ』(佐藤亮一訳)を読むと、初めから終わりまで眠たいという話ばかりである。
リンドバーグは出発の前の晩もほとんど起きていて、離陸まで23時間眠らなかったと書いている。そのため離陸するとすぐに眠くなった。といって操縦しながら眠るわけにはいかない。
「睡魔が忍び寄ってくる。最初はほとんど気がつかないくらいだが、1分ごとに眠さが強くなってくる」
「両目は石のように乾き、そして固くなったような気がする。……まぶたが自然と垂れ下がってくる……生きてる人間として遂げたい望みは、眠りたいという欲望以外には何もないと、体ぜんたいが真底から睡眠が欲しいと要求し、心が統御力を失いかける」
「私はまた半分眠っていた……進路を修正し機を傾けてコース上に戻し……」
「絶えず目をさましていなければならないという問題がある。……なんとか高度を維持しようと苦闘するのだが、これこそ悪夢といってよかろう」
「眠気が麻薬のように私の抵抗を圧倒する。5秒間だけまぶたの閉じるのを許す。何十トンという重さがまぶたにのしかかる。親指で無理にこじあけなければ、まぶたが開かない。……眠るためなら、生命のほかは、どんな代償を払ってもいい」
「機は急降下で旋回する。私は目をあけたまま眠っている。……方向指示器が左に傾く――速度が落ちる――指示器の小球がやにわに片方に転ぶ。……機は制御力を失いかけている! この現実が私をハッとさせる」
「何か朦朧とした気分だ。私は目を閉じ、そのまま数秒間も閉じたままでいた。どんなに精神力で努力しても、目をあけておくことはできない。……白日夢にふけりながら、なおもでたらめなコースを飛びつづけている」
「クモの巣のようにからむ睡魔を絶ち切ろう!……計器盤の文字はボーッとかすみ、頭はふらふらする」
「私は幽霊なんてものを信じたことはない。がしかし、今日何時間も私といっしょに乗っていたあの人影を、どう説明したらいいのだろう? 人間の輪郭を備えた透明な人影……それが私に話した……しかし、何を話したのだろうか? その一言さえも思い出すことができない」
こうしてリンドバーグは睡魔に襲われ、幻影を見ながら、33時間半の飛行で夜のパリに到着、かろうじてルブールジェ飛行場に着陸することができた。それから群衆にもみくちゃにされ、アメリカ大使に招かれるなどして、ベッドに入ったのはパリ到着から7時間後であった。総計63時間を眠らずに過ごしたのである。
余談ながら、この本の原題は The Spirit of St.Louis ――大西洋を渡った飛行機の愛称である。「翼よあれがパリの灯だ」などというカッコいい言葉はどこにも出てこない。これだけ眠たければ、当然であろう。その一方で、睡魔をしりぞけたのは「セントルイス魂」であった。
1年ほど前(2002年2月)ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館で見た「スピリット・オブ・セントルイス」。
この飛行機でリンドバーグが大西洋の単独横断に成功したのは1927年5月20〜21日。洋上5,800kmを飛ぶために搭載した燃料は補助タンクを合わせて450ガロン。自分のためには2本の水筒と紙袋に入れたサンドイッチだけであった。
この飛行で、無名のパイロットは一躍世界的な有名人となり、賞金25,000ドルを獲得したが、その背後には同じ挑戦を試みて6人が死んでいる。では、人間はどのくらい眠ればいいのか。必要な睡眠の量は人によって異なる。女性は男性よりも眠りが少ないし、老人は若者よりも少ない。また、ある人は5〜6時間眠れば充分と感じるが、別の人は8〜9時間必要という。
アメリカの最近の調査では、全米から1,000人の大人を抽出して調べたところ、週日の平均睡眠時間は6.9時間、休日は7.5時間であった。また回答者の3分の1は、翌日眠くないためには少なくとも8時間の睡眠が必要と答えた。つまり、多くの人がもっと眠りたいと感じているのである。
だからといってむやみに眠ればいいというわけではない。1982年から6年間にわたって110万人のガン患者を対象におこなわれたアメリカの調査では、1晩に7時間眠ると答えた人びとが最も長く生きたという。
そして驚いたことに、それより短い人ばかりでなく、長く眠ると答えた人も生存期間は短かかった。しかも睡眠時間の長い人の方が短い人よりも早く死亡したのである。もとより、この結果は睡眠の長いことが死亡の原因になるといった因果関係を示すものではない。逆に病状が悪いために、睡眠が長かったのかもしれない。
ただ一つ言えるのは、8時間の睡眠が最適とは限らぬということ。誰もが8時間という常識をもっているため、6〜7時間しか寝ていない人は、自分が睡眠不足であるという不安感にとらわれるが、実際は要らぬ心配なのである。
ましてや1日9時間の睡眠などは過剰で、邪魔の入らぬ状態で7時間も眠れば最良であろう。つまり時間という量よりも、眠りの質が問題なのである。
眠たいときはいつでも短時間のうたたねをするのが良い。歴史上もナポレオン、エジソン、チャーチルなどはわずかなチャンスを見てはまどろむのが得意だった。南方の国々では昼寝(シエスタ)の習慣があるが、意識を清明に保ち、脳の働きを良くするには、昼寝も有効と見られる。しかし、このような昼寝やうたた寝はせいぜい30分くらいの短いのが良い。余り長いと深い眠りに入って、目が覚めるのに時間がかかるからである。
ナポレオン、アルプス越えの図![]()
一生の3分の1を寝ていなくてはならないなどと考えると、人生はいかにも短いと思われてくる。たしかに近代社会の発展は、この自然の摂理に反するようなことをわれわれに強いるようになった。
兵隊は敵を倒すまで戦い続けなければならないし、国際線のパイロットは地球の裏側の目的地に着くまで何時間も操縦を続けなくてはならない。あるいは外科医は、患者の生命を救うために何時間も立ったまま手術を続けなくてはならない。企業の役員は明日の会議のために徹夜で資料づくりをしなければならず、政治家は夜も寝ないで選挙運動に走り回らなければならない。
そこで、人が眠らずにすむようなクスリはないものかと思う。眠らずにすめば、人生は1.5倍に延びるのだ。もっとも逆に、この苦しい人生をいつまでも目覚めていたいと思う人ばかりとは限らない。ベッドにもぐりこんで丸くなることが、この世の天国ではないかと考える人もいるだろう。
エコノミスト誌を読んだあと、ふと思い出して本棚の奥から『人間であること』(時実利彦著、岩波新書、1970年刊)を引っ張り出してきた。時実先生は、私も学生のときに講義を受けたことがあるが、この本はそれから10年後に出たものである。それでも今から30年以上も前の本で、古いように見えるが、当時の最先端の研究成果を書いてあり、今も決して古くはない。
「断眠」の実験や記録についても触れてあって、これを拷問や刑罰に使う場合の呼び名は「うつつ責め」ということも書いてある。また「長い断眠は神経細胞をこわすことになり、人道上の問題になる。従って、そうやすやすと断眠実験はできない」。アメリカの学術雑誌に17歳の高校生が264時間(11日間)の断眠をしたと発表されたが、「にわかには賛成できない」と書いておられる。
実験に賛成できないのではなくて、11日間の断眠が信じられないという意味である。そこで時実研究室でも1966年8月、「23歳の画家の青年について、厳重な監視のもとで断眠実験を行い、101時間8分30秒の記録を作ることができた。科学的信憑性のある断眠の世界レコードである」
この4日余りの断眠の間に、被験者の「体温、血圧、心拍、呼吸数など、身体面では全く変化がみられなかった」。けれども、「精神面では、かなりの影響が現れて」「断眠3日目になると、自分の意思で目ざめていることが非常に困難になった」。
高等な精神活動は急に悪くなり、錯覚や幻視がおこり、絵を描く意欲もなくなった。「この貴重な実験でわかったことは、高等な精神活動の座である新皮質は、せいぜい2日間のおきつづけしかできないということである」
リンドバーグも1日半でパリに到着したからよかったものの、もしも大西洋がもう少し広くて、単独で2日以上飛ばなければならないような距離であれば、パリの灯を見る前に墜落したかもしれない。
時実先生の本には「食欲は食堂で、休息はベンチでといった具合に、簡単に眠らせてくれるような睡眠販売所の実現はいつであろうか」と書いてあるが、あのころ猫を試験台にのせて頭を固定し、脳波計をにらみながら徹夜で意識レベルや睡眠など脳の実験を続けておられたのを思い出す。きっと実験の合間に眠気がさすようなこともあったにちがいない。
レム睡眠とノンレム睡眠の脳波それでは、おやすみなさい。どうぞ良い初夢を。
(西川渉、2003.1.2)
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