
<鎮 魂>
スペースシャトルとスミソニアン ![]()
スペースシャトル「コロンビア」の空中分解は、まことに恐ろしいことだった。
当然のこと、誰もが17年前の悪夢を想起したわけだが、あの「チャレンジャー」の爆発事故は例外中の例外で、もう二度とそんなことは起こるはずがないと、いつの間にかそう思いこんでいた。しかし決して例外や特例ではなかったのである。
聞けば、スペースシャトルの打ち上げはこれまで113回だそうである。わずか113回のうちに2度も大きな死亡事故が起こるとは、むしろ無事に飛んで帰って来る方が例外なのかもしれない。
羽田空港では1日の発着回数が770回。その半分が離陸だとすれば、毎日6機ずつ墜落していることになる。むろんスペースシャトルの方には、老朽化による経年疲労その他の複雑で困難な要素があるだろうが、恐ろしく高い事故率である。
17年前、チャレンジャーの事故を私が知ったのはアメリカ旅行中であった。その数日後ワシントンのスミソニアン航空博物館を見学して、帰国後、航空自衛隊の機関誌『翼』(1986年3月号)のために、スミソニアン見学とチャレンジャーについて一文を書いた。事故の犠牲者は、あのときも今回も7人ずつである。旧い作文をここに掲載しておきたい。
死者を悼む
垂直飛行室を見る 本稿の執筆依頼を受けたのは、折良くアメリカへ出かける少し前であった。依頼のおもむきは、これまでに航空博物館を見たことがあれば、その紹介をしてほしいというものである。
それならば、今回アメリカに行くついでに、どこかで博物館を見てこようと考えた。しかし旅程はほぼ組み上ったあと。木村秀政先生にお尋ねすると「フロリダ州ペンサコーラの海軍航空博物館が面白いでしょう」というご推薦をいただいた。けれどもそこまで回る余裕がなく、ワシントンの休日しか時間が取れそうもないということになった。スミソニアン航空宇宙博物館である。
しかし、スミソニアンは余りにも知られすぎている。特に本誌の読者でアメリカに行ったことのある方は、たいていここを訪れているだろう。筆者自身もこれが3回目である。それに講談社の『世界の博物館』シリーズでは第2巻に『ワシントン航空宇宙博物館』(昭和53年刊)という大部の本があって、展示内容をきれいな写真と文章で詳しく紹介している。
いまさらスミソニアンでもあるまいというところだが、話題を「垂直飛行室」に絞ればいいかもしれない。幸か不幸か、右の本にもヘリコプターのことは余り触れてないのである。
2002年2月のスミソニアン航空宇宙博物館
スミソニアン垂直飛行室 ワシントン航空宇宙博物館はテーマごとに、いくつもの部屋やホールが設けられている。たとえば飛行の歴史、航空輸送、第一次大戦、第二次大戦、気球と飛行船、人工衛星、ロケットと宇宙飛行など。
「垂直飛行室」もそのひとつで、入口には Vertical Flight という英語のほかに、独、仏、伊、西にまじって日本語でも垂直飛行という表示が出ている。この看板をくぐって部屋に入ると、すぐ頭の上にケーレイ卿の設計した「空飛ぶ鳳凰船」の模型が天井から吊り下げてある。
ケーレイ卿の鳳凰船イギリスの科学者、ジョージ・ケーレイ卿(1773〜1857年)は、周知のとおり「航空学の父」として、流れの中を高速で移動する固定翼の原理を解明した人だが、回転翼についても関心をもち、さまざまな設計を考えた。この4分の1模型もそのひとつで、1843年に発表された。烏の頭とからだを模した胴体左右に同軸反転式のローターを張り出し、その後方に二つの推進式プロペラがつく。つまり四つのローターで垂直に上昇し、二つのプロペラで前進しようという構想である。適当なエンジンがあれば、実際に空を飛ぶことができたであろうといわれる。
この模型の下、右手の壁にはヘリコプターの歴史を示すパネルと模型が展示されている。最初にあるのが中国の竹とんぼ。ここに飾ってあるのは1106年の模型で、羽根のついた軸を筒の中にはめ込み、それに糸を巻きつけて勢いよく引っ張って回転力を与える仕組み。われわれも子供の頃、似たような玩具で遊んだ憶えがある。これを英語では Chinese Top (中国のこま)と呼んでいるが、もっと簡単な手まわし式の竹とんぼは紀元前4世紀にもさかのぼるらしい。日本でも8世紀なかば、奈良時代の遺跡から木製のとんぼが発見されている。
チャイニーズ・トップを基にして、1784年にローノイと
ビエンブンチュがつくった2重反転式の羽根トンボその次は、レオナルド・ダ・ピンチ「ヘリックス」のスケッチ。布張りのらせん形の帆柱を円形の台の上に立て、これを回転させて垂直に飛び上がろうというもの。ヘリコプターの原理は、このスケッチと手記によって1500年頃レオナルドが考えたとされる。
レオナルド・ダヴィンチとヘリックスの模型
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次いでジュール・ベルヌが1886年頃、空想科学小説に登場させた「アルバトロス」号の絵。74個の電動プロペラで飛行する巨大な空の船である。 その隣のガラス箱に入った模型は、フランス人ローノイがパリ万国博や科学アカデミーで実演したローター飛朔体。一本の軸の上下に七面鳥の羽根でつくったブレードを4枚ずつ取りつけ、ばね仕掛けで互いに反対方向に回るようにしてある。かなり高くまで飛んで、人々を驚かせたらしい。
その後に有人ヘリコプターの初飛行の説明。1907年のフランスで、まずプレゲー兄弟の「ジャイロブレーン1号機」が9月19日、人をのせて上60センチまで上昇した。同機は四つの複葉回転翼をもっていたが、操縦性が不充分で機体の四隅を4人の助手が支えていなければならなかった。
それから2か月後の11月13日、同じフランス人ポール・コルニュのヘリコプターが高度2m、滞空20秒間の飛行をした。これは機体の前後にうちわのようなブレードをもつ回転翼をつけたもので、充分な操縦性はなく、垂直上昇だけであったが、地上の支えはなかったために、ヘリコプターの真の初飛行とされている。ただし、この博物館の展示ではそうした判定は下していない。
初めて人をのせて飛んだヘリコプターとポール・コルニュ(下)

試行錯誤の跡を示す実験機 さらに奥に進むとドイツのFW61の模型が見られる。1937年につくられた同機は胴体左右に張り出したマストの上にローターをつけた双ローター機で、模型の胴体には Deutschland の文字があり、垂直尾翼にはハーケンクロイツのナチスのマークが描かれている。操縦席にすわっている人形は、ベルリンのドイチュランド・ホールで屋内飛行を演じた女流パイロット、ハンナ・ライヒであろうか。
ドイツホールで屋内飛行をするハンナ・ライチその頭上にはFA-330の実物大の模型が飛行服に身を固めたパイロットをのせて飛んでいる。これは「ジャイロ凧」と呼ばれ、無動力のローター・ブレード3枚がついているだけ。車や船で引っ張ると回転翼が回って浮上する仕組みで、第二次大戦中のドイツでUボートに積み込まれ、曳行索によって高度150mまで上昇、偵察や索敵に使われた。
同じ頃アメリカでは、イゴール・シコルスキーによるヘリコプターの実験が進んでいた。試作機のVS-300は大きな成功を収め、 近代ヘリコプター誕生の先駆けとなった。
シコルスキーVS-300
イゴール・シコルスキーは自ら試作機のテストをおこなったが、
いつも山高帽にフロックコートという正装だったのは何故か。
シコルスキー社の人に訊ねたけれども、
そういう習慣だったのでしょうという答えしか得られなかった。その模型の背後にある草色の実機は、VS-300から発展したシコルスキーXR-4。コクピット外側に「乗員は400ポンドまで」という注意書きがある。胴体は側面の外板がはずしてあるので、操縦席のすぐ後の星型エンジン (175馬力) と主ローターまでのトランスミッション系統がよく見える。量産型のR-4は、第二次大戦中に131機が生産され、軍に配備された。
このヘリコプターと共に、もうひとつ大きな実機が見られるのは、シコルスキーUH-34D(S-58)。1954年に海兵隊から発注されたもので、兵員は12人乗りである。なお、この機体の周囲には旧い時代のさまざまな米軍ヘリコプターの写真が展示されている。
ほかに実機または実物大の展示機としては、ケレットYO-60オートジャイロ、ペンテコスト・ホッピコプター、ピアセッキPV-2、ヒラーXH-44、ベンゼン・ジャイログライダーなど。
ケレットYO90オートジャイロ――滑走せずにジャンプ・テイクオフができた
ペンテコスト・ホッピコプターこのうちPV−2は、のちにタンデム・ローターで有名になったピアセッキが、初期の頃は単ローター機を考えていたことを示す。そしてみずから操縦桿をにぎり、1943年4月2日に初飛行した。
その上を飛んでいるのがXH-44。「ヒラーコプター」と呼ばれる同機は米国初の二重反転式の双ローターをもち、初の全金属製ブレードを使用している。1944年、弱冠19歳のヒラーみずからの操縦で初飛行し、3年ほどの問に100時間以上の飛行をした。
この実験から、ヒラーはのちに今なお飛んでいる近代的なヘリコプターの開発に成功する。その形式は単ローター機。ピアセッキが単ローターからタンデムに進んだのとは逆で、博物館にある初期の実験機は、試行錯誤の跡を示すものといえようか。
ヒラーコプター
未来への期待と希望 こうした初期のヘリコプターの中で、もうひとつ欠かせないのはベル機である。スミソニアン博物館としては最も初期のベル30を所蔵し、アイゼンハワー大統領が乗用機として使った47Jもある。同機は初の大統領機として1957年7月13日、ホワイトハウスから飛び立ったものだが、今回は展示されていなかった。
その代り、新しいベル206L-1ロングレンジャーが飾ってあった。この小型タービン・ヘリコプターは「スピリット・オプ・テキサス」と呼ば れ、1982年9月1日から30日にかけて29日と3時間8分で世界ー周を果たした。持っていたのは2人。キャ後部には座席を外して151ガロン入りの補助タンクを搭載、一挙に8時間の飛行ができるようにしてあった。
そしてテキサス州ダラスから東回りに地球を一周、途中で日本を縦断するなど26か国を通過、39,838kmを平均時速188キロ翔破したものであ る。総滞空時間は246.5時間。1日平均9.5時間の飛行であった。この間、機材上の不具合は全くなく、ヘリコプターにも長距離、長時間の飛行に耐えられるような信頼性のあることを実証した。
この「テキサス魂」の外装は黄色地に朱と茶色の帯が入り、コクピット外側にロス・ペロー機長とジェイ・コパーン副操縦士の名前が記されている。機体のそばには飛行コースを示す地図や、途中の状況を撮したビデオ映像がが流れていた。
世界一周をしたベル206L「テキサス魂」は今も展示されている(2002年2月撮影)こうしたヘリコプターの近代化を示す展示は、もうひとつ米沿岸警備隊の活動ぶりを見せる写真と映画である。この映画は海難救助を主題としたもので、遭難した船の乗組員を海上で引上げるヘリコプターの姿が、みごとに映し出されている。
タービン・エンジンの実物もある。小型、軽量、強力というすぐれた特性をもっターボシャフトは、ヘリコプターの飛行性能はもとより、安全性や信頼性の向上に多大の貢献をしている。
そして、さまざまなVTOL機の写真パネル――ベルATV、マクダネルXV-1、コンベアXFY-1、ライアンX-13、カーチス・ライトX-100、P.1127などである。いずれも1950年代から60年代の研究機で、あの頃は確かにVTOL機にかける夢も大きかった。
コンベアXFY-1――機体に乗り込むだけでも
パイロットは大変だったが、夢もそれだけ大きかった。最後は、ヘリコプターの作動原理を見せる模型。実際の部品を利用したと思われる操縦系統、トランスミッション、主ローター、尾部ローターがブレードや伝導軸を短縮してコンパクトな模型にまとめてある。これを、おそらくは電気モーターで回しながら、操縦席にすわってスティックを動かせばブレードのピッチ角が変わったり、ローターが傾いたりするのであろう。
しかし今日は、実際の動きを見ることができなかった。将来はコンピューター作動によるシミュレーターを併せて置けば、どんなにか面白いであろう。博物館を面白くするには時に動くものが必要であり、さらに自分で動かせる装置はいっそうの興味を掻き立てるはずである。
こうしてワシントン航空宇宙博物館の「垂直飛行室」は、ヘリコプターの歴史と発達の経過を、写真や模型に珍しい実物をまじえて興味深く示してくれる。
われわれはそこに、過ぎ去った夢と汗と涙、研究と実験と冒険の跡を読み取ることができる。同時に、未来への期待と希望と展望をも感じ取ることができるのである。
「チャレンジャー」の鎮魂歌 ところで、この博物館を筆者が訪れたのは、あのスペースシャトル「チャレンジャー」が紺碧の大西洋上で恐ろしい悲劇に見舞われてから数日後のことであった。
博物館の一角には以前からスペースシャトルの大きな模型が展示してあったが、事故の直後、模型の前には7人の宇宙飛行土の遺影が掲げられた。筆者の行った日も、その前には沢山の人が集まり、静かなさざめきの中でそれぞれ冥福の祈りを捧げていた。
遺影には黒いリボンがかけられ、その下に7人の名前と年齢と経歴が簡単に書いであった。祭壇のようなものは何もなかったが、その前の床面に直接いくつかの花束が置かれていた。
その横に黒枠の額に入れた一篇の詩。バージニア州の誰それという署名入りで、作者みずからそこに置いていったものであろう。人混みの中の小さな文字だが、『八番目の座席』(The Eighth Seat)という題が読み取れる。地上に生き残ったわれわれは、いつでも八番目の座席に乗りこんで、宇宙へ飛ぶ用意がある。7人の御霊(みたま)よ安らかにという鎮魂の歌である。
後日、このことをあるアメリカ人のパイロットに話したら、急に黙り込んでしまった。……ややあって彼は、かつて空軍の戦闘機に乗っていたというが、その大きな手で顔中をくしゃくしゃと撫でまわした。
(西川渉、航空自衛隊機関誌『翼』1986年3月号掲載)
17年前のチャレンジャー爆発。発端は天候不良のために打ち上げが延びて、
関係者や責任者が徹夜をするなど睡眠不足が遠因だった。
つい先日の本頁にそう書いたばかりだが……。今コロンビアの事故も、NASAの予算が削られ、職員が3分の2に減って、
1人ひとりの負担が大きくなるなど、同じような状況があったのではないか。
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