<ヘリコプター・メーカー>
ヒラー・エアクラフト社
ヘリコプターの殿堂入り 今から1年前の2003年2月、国際ヘリコプター協会(HAI)の年次大会で、スタンレー・ヒラー氏が壇上に立ち、大勢の人びとから祝福の拍手を受けた。ヘリコプターの殿堂入りが発表されたときのことである。
殿堂といえば、よく知られているのが「野球の殿堂」(National Baseball Hall of Fame)だろう。ベーブ・ルースやルー・ゲーリックなど大リーグで活躍した有名選手をたたえる遺品や写真が、未踏の記録と共に展示されている。
同じようにオハイオ州デイトンには「航空の殿堂」(National Aviation Hall of Fame)がある。ウィルバーとオービルのライト兄弟を筆頭に、チャールス・リンドバーグ、人類初の月面歩行をしたニール・アームストロング船長、女性として初めて音速を超えたジャクリン・コクランなどが顕彰されている。
そして2001年「ヘリコプターの殿堂」(Heritage Hall of Fame)が、国際ヘリコプター財団(HFI)によって設立された。まだ3年しか経っていないが、イゴール・シコルスキー、フランク・パイアセッキなどの名前が見える。
このヘリコプターの殿堂にスタンレー・ヒラーの名が加わったのは、近代ヘリコプターの歴史を体現する1人だからであろう。この人は1942年、まだ高校生のときにヒラー・エアクラフト社を設立した。1944年には弱冠19歳で史上有名なXH-44同軸反転式ヘリコプターを作り上げる。この「ヒラーコプター」がめざしたのは自家用車と同様、簡便なヘリコプターを1戸に1機ずつ普及させ、通勤や買い物など日常的な移動手段に使ってもらうという考え方であった。
その思想は今なお実現したとはいえないが、1950年代にはシコルスキー、ベルと並んで、アメリカ3大ヘリコプター・メーカーの一つとなった。
(2003年2月、ヘリコプターの殿堂入りを受けてHAI大会で挨拶するスタンレー・ヒラー氏)
小型ヘリを代表するUH-12 ヒラーがヘリコプターの開発に関心を持ったのは17歳のときである。2年後、XH-44を完成した。Xは実験機、Hはヒラーの頭文字、44は開発年を示している。2人乗りの同機は150hpのピストン・エンジンをつけ、1944年5月14日初飛行した。同軸反転機としてはアメリカで初めての成功である。
その後、ヒラーはローター・ブレード先端からガスを噴射する「ジェット・トルク」方式のヘリコプターも手がけた。しかし、やがてシコルスキーやベルと同じシングル・ローター方式に同調するようになった。
そこから生まれたのが「ローターマティック」と呼ぶ操縦機構である。主ローターの下に小さなサーボ・ローターを直角に取り付け、先ずこれを操縦桿で動かして主ローターの回転面を傾け、それによって操縦するという方法である。この方式は安定性にもすぐれ、1947年に飛んだ実験機は早くも手放し飛行が可能であった。
このローターマティックを用いたヘリコプターがモデル360である。180hpのフランクリン・エンジンを搭載した2人乗りの機体で、1948年に初飛行、翌年アメリカ大陸を横断して評判となった。
同機は後にモデル12と改められ、1948年10月14日アメリカ民間航空局(CAA)の型式証明を取得した。これがUH-12として量産に入ったのは1949年だが、ベル47同様に小型ヘリコプターの代表機種として発展、UH-12A、-12B、-12C、-12D、-12E、4人乗りの-12E4など、1960年代末までの20年間に3,000機以上が生産された。そのうち1,200機はH-23の呼称でアメリカ陸軍および海軍に採用され、訓練、観測、連絡などに使われた。これはベル47よりも多い調達数で、小型ピストン機として同機が如何に優れていたかを示すものであろう。
UH-12の製造は1968年いったん中止されたが、1973年3月新ヒラー・アビエーション社の発足によって再開され、現在はカリフォルニア州のヒラー・エアクラフト社が継承、UH-12C,UH-12E3、ならびにアリソン250-C20Bエンジン(400hp)を装備するタービン改造型のUH-12E3Tの製造が続いている。
(ヒラーUH-12)
LOH開発競争に参加 これらH-12またはH-23のほかに、ヒラーは1952年、HJ-1ホーネットと呼ぶ2人乗りのヘリコプターを開発した。胴体は金属製の構造にファイバーグラスを用いたプラスティックの外板を張り、2枚の金属製ブレードには先端にラムジェットが取りつけられていた。ほかに補助のピストン・エンジンがつき、先ずピストン・エンジンで毎分50回転までローターを駆動し、それからラムジェットに点火して回転数を上げる仕組みである。
この斬新なヘリコプターを、米陸軍はH-32の名前で12機購入し、海軍も1機を買い入れて評価テストをおこなった。軍用機としては観測や連絡に使えるという見こみだったが、残念ながら本格的な量産には至らなかった。
1957年にはティルトウィング機の開発も試みた。米空軍からX-18の呼称で10機の注文を受けたものである。総重量15トンのずんぐりした胴体はYC-122双発輸送機から流用、これにアリソンT40ターボシャフト・エンジン(5,850shp)2基を装備して、主翼が通常の水平状態から垂直位置まで動くようになっていた。
初飛行は1959年11月。以後20回ほどのテスト飛行をおこない、最大速度402km/hをめざしたが、満足すべき結果が得られず、計画は打ち切られた。
1964年、ヒラー社はフェアチャイルド社の傘下に入り、フェアチャイルド・ヒラー社となった。その少し前、ヒラー社では米陸軍の軽観測ヘリコプターLOHの開発競争に参加、OH-5A原型機を製作して、1963年1月26日初飛行に成功していた。
当時H-23小型機は米陸軍からの注文も最大に達し、非常によく売れていた。しかしヘリコプター・メーカーとして、小型機だけでは不満足で、ベル社がモデル47に続いてUH-1タービン機で発展をつづけているように、ヒラー社もH-23より一回り大きなLOHで、タービン時代へ向かうことになった。とりわけLOHは最初の3年間で1,000機という大量発注が予定されていたし、OH-5Aには米陸軍も好意を示していたことから、ヒラーの勝利は間違いないと見られていた。
LOHスキャンダル ところが1965年、LOHの選定結果が陸軍から発表されると、勝者はヒューズOH-6になっていた。この時点では、ヒューズ社の量産実績もモデル269小型ピストン機だけである。にもかかわらずOH-6が勝ったのは、かのハワード・ヒューズのやや強引な政治的動きに加えて、値段の安いことが最大の理由であった。政府の予定価格3万ドルの3分の2程度――正確には1機平均19,860ドルという破格の入札価格だったのである。
この値段で、ヒューズ社は先ず714機を納入する予定だったが、恐らくは1機あたり11,000ドル、合わせて800万ドル程度の赤字になるものと予想された。しかるに陸軍が発注したのは、何故か88機だけ。やがて121機の追加注文が出ると、この追加分にハワード・ヒューズは1機55,927ドルという高値をつけてきたのである。陸軍はあわててヒューズ社と交渉し、49,500ドルまで下げさせたものの、まだ予定価格の1.65倍だった。入札価格からすれば2.5倍である。
この値上げ分について、陸軍が追加予算を議会に要求すると、驚いた議会は軍事委員会の中に特別調査委員会を設けて調査に乗り出した。すると価格問題もさることながら、ヒューズ社には生産体制もできてなく、予定通りの期日に納入するのは誰が見ても不可能であることが判明した。
事実、最初の88機は1965年度中に納入されることになっていたが、陸軍が受け取ったのは結局12機だけであった。特別調査委員会の結論は、陸軍の調達方法に不手際があったというもので、入札価格を値上げするならば、契約を打ち切ることになった。
やむをえずヒューズ社はOH-6をつくり続けたが、当初の価格ではつくればつくるほど損失が出るありさまだった。このスキャンダルで、陸軍もメーカーも双方が傷ついたのである。
この機に乗じて、米陸軍の新たな契約を獲得したのは、ヒラーではなくて、ベルであった。同社はLOH競争に負けたOH-4Aを発展させ、動力系統を流用しながら、外観を一新したモデル206ジェットレンジャーの開発に成功、民間市場では最も標準的な小型タービン機へと仕立て上げるのに成功した。それが米陸軍の新しいOH-58として2,200機を受注、LOH競争の雪辱を果たしたのである。
成功のチャンスはあったが 肝心のヒラー社は、こうした変化の波に乗り切れなかった。負けたOH-5Aを基本としてFH-1100という玄人好みのヘリコプターを実現し、早くも1964年7月20日アメリカ製の小型タービン機としては初めてFAAの型式証明を取得した。まだ陸軍のLOH評価試験がつづいていた頃である。
その量産型1号機が完成したのは1966年。LOHの第2次競争入札がおこなわれたのは1968年のことで、このときもFH-1100はベル206以上に有力と見られていた。ところがヒラーは入札に参加しなかったのである。フェアチャイルド・ヒラー社となって、社長のエドワード・ウールとスタンレー・ヒラーとの間で意見の食い違いがあったらしい。詳細はよく分からないが、入札価格の計算までしながら、ついに応札しなかったのである。
計算の結果は後に、ベル社の契約価格よりも安いことが分かった。とすれば、もしこのときヒラーが応札し、陸軍が採用していれば、ベル206に代わってFH-1100がLOHになるのはもとより、民間機としても広く普及していた可能性が高い。そうなれば当然、ヘリコプター・メーカーとしてもヒラーの立場は大きいものとなったであろう。現実には、しかし、FH-1100は民間向け246機の製造にとどまった。
企業の合併や吸収は財務的には強化されることが多いが、人間的には必ずしもうまくゆかない。社内の齟齬をきたす例も多く見られるのだ。フェアチャイルド・ヒラー社の場合も例外ではなく、結果として、一時はシコルスキーやベルに肩を並べながら、徐々に取り残されていった。従業員数も、最も多いときで2,000人程度に終わったのである。
最も創造的な企業 だがヒラー社は、企業としての規模は大きくならなかったけれども、垂直飛行の世界にあっては最も創造的な企業だったといえるかもしれない。
ヘリコプターについては先に述べたローターマティックの独創を初めとし、全金属製のローターブレードを導入したのもヒラーが最初であった。これにはほとんど全てのヘリコプターが追随したのもご存知のとおりである。
HJ-1ホーネットも、実用には至らなかったが、ヒラー自ら開発した8RJ2Bと呼ぶラムジェットをブレード先端につけるという独自の構想であった。
さらにヒラーは「魔法のじゅうたん」ともいうべきフライング・プラットフォームの開発を手がけた。同機はVZ-1と呼ばれ、ダクテッドファンを内蔵する円盤の上に人が立ったまま乗るという構造で、1955年2月27日初飛行した。40hpのピストン・エンジン2基を搭載、直径1.5mの2重反転ファンを駆動して垂直に離着陸する。その上に立ったパイロットは、自転車のようなハンドルを両手でにぎり、スロットルをひねることでエンジン出力を加減しながら、自分が進みたい方向へ体を傾けるという操縦方式である。
VZ-1は原型3機が飛行したが、2機目はファンの直径が1.8mと大きくなった。3機目は陸軍の要求で40hpのエンジンを3基に増やし、車輪式の降着装置が4つのスキッドに変わって、パイロットの座席もついた。が、結局、実用にはならなかった。
もうひとつヒラー・フライング・クレーンは、陸軍やNASAも熱心に取り組んだ計画である。開発研究は1950年代なかばから始まり、直径60mの巨大なローター・ブレード先端にコンチネンタルJ60ジェット・エンジンを取りつける構想だったが、1960年代初め原型機ができる前に中断した。
その後NASAは1965年、アポロ宇宙船を打ち上げるサターンX型ブースター・ロケット回収のためのクレーン機をヒラーに求めてきた。ロケットの重さは400トンもあり、それを吊り上げるには総重量1,000トン以上、ローター直径は100m近くになる。ヒラー社では各ブレードの先端に2基以上のジェットを取りつけ、毎分60回転の速度で回すという構想が出来上がった。実現すれば史上いかなる航空機よりも大きなものになるはずである。
しかし、NASAが莫大な開発予算にたじろいでいる間に、宇宙計画もアポロからスペースシャトルに移行して、サターン・ロケットを使わなくなり、巨大クレーン機の計画も中止された。
こうしたスタンレー・ヒラーの独創性を示す品々は、いまカリフォルニア州サンカルロス空港のヒラー航空博物館に展示されている。
ヒラーX-18ティルトウィング機
ヒラー・エアクラフト社の足跡と各機の初飛行年
年 足 跡 初 飛 行 1942 ヒラー・エアクラフト社創立
1944
XH-44
1948
モデル360
1950
UH-12A
1953
HJ-1ホーネット
1955
フライング・プラットフォーム
1955
YH-32Aウルトラライト機
1957
ローターサイクルXROE-1
1959
X-18ティルトウィング輸送機
1960
ヒラーUH-12E4
1963
OH-5A
1964
XC-142ティルトウィング(ヴォート、ヒラー、ライアン3社の共同開発)
1964 フェアチャイルド社の傘下に入ってフェアチャイルド・ヒラー社となる
1966
FH1100
1968 ヒラー・エアクラフト社解散
1973 ヒラー・アビエーション発足(UH-12の製造権継承)
(西川 渉、『航空情報』2004年4月号所載)
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