
<メーカー訪問>
ユーロコプター・ドイツ社 ![]()
ドイツにも戦後の空白 ユーロコプター・ドイツ社のドナワース工場を初めて訪れたのは数年前のことであった。ミュンヘンから北へアウトバーンを1時間余り走ったところにあり、そばにドナウ川が流れている。
工場の一角、ブリーフィング・ルームに入ると、焼け落ちて鉄骨だけになった建物の写真が隅の方にかかっていた。この工場が第2次大戦中に空襲を受けたときのもようである。当時は軍用機を製造していて、英、米軍の狙うところとなり、激しい爆撃にさらされたらしい。
そして敗戦から7年、ドイツは航空機の製造と運航を禁じられた。いうまでもなく日本と同じだが、おそらく日本よりも苦しかったのは国が東西に分割されていたため、航空機の運航に関してはさまざまな制約が残った。
とりわけベルリンは半分が西ドイツに属しながら、東ドイツの領域にあったため、ドイツ機の運航が認められなかった。西ベルリンへの定期航空は米、英、仏など旧連合国の航空会社がおこない、ルフトハンザ・ドイツ航空は指をくわえて見ているほかはなかった。無論ヘリコプターも飛べない。そのため西ベルリンの救急機はドイツ自動車クラブADACのマークをつけてはいたが、実際はアメリカのヘリコプター会社が飛んでいた。
これらの制約がすべて取り除かれたのは1990年、東西ドイツの統合が成ってからのことである。その後しばらくしてADACの責任者、ゲルハルト・クグラー氏が来日したとき、ホテルに訪ねていった私の顔を見るなり「ベルリンで飛べるようになった」と語った。東西の壁がなくなって、ヘリコプターの運航もさることながら、一種の解放感が嬉しかったにちがいない。
FA61
戦前のドイツ・ヘリコプター ドイツのヘリコプターは戦前のハインリッヒ・フォッケ教授の開発努力に始まる。そのFa-61は1936年に初飛行し、歴史的にも重要な足跡を残した。滞空時間、到達高度、飛行速度などの世界記録のみならず、史上初めてオートローテイション着陸に成功してヘリコプターの安全性を実証した。
1938年には女流飛行家ハンナ・ライチの操縦により、ベルリンのドイチュランド・ホールで大観衆を前に飛んで見せた。この屋内飛行はヘリコプターの操縦性と安定性が完成したことを示すものである。
やがて同機は6人乗りの大型機に発展する。これをルフトハンザ航空は都市内の旅客輸送に使いたいと考え、Fa-266の呼称が与えられた。ところが、ヒトラー政権下で戦争が激化したため、軍用向けFa-223の量産に集中することとなった。しかし同機の製造も、敗戦によって10機余りに終わった。
こうした未練を残したまま空白の期間を経て、ドイツのヘリコプター工業がよみがえったのは10年ほどたった頃である。そのひとつは1956年、ベルコウ社の発足であった。最初の製品はBo102ヘリトレーナーと呼ばれる操縦訓練台。機体は地面に固定されているが、40馬力のエンジンでローターを回し、コレクティブ・ピッチ・レバーを引くと、支柱に沿って0.6mほど上昇し、ホバリング状態となって旋転も可能であった。機首もわずかに上下する。ヘリコプターの垂直離着陸とホバリングの訓練が目的で、通常のヘリコプターを使うよりもはるかに安く、しかも安全な基礎訓練ができる。総数18機が製造され、欧州各国の軍でパイロットの訓練に使われた。
このヘリトレーナーのさらに大きな特徴は、ローター・ブレードが1枚で、反対側にはバランスを取るための重りがついているだけ。ブレードもグラスファイバー製という、先進的な技術を採り入れていた。
その技術を受け継いだ本物のヘリコプターが1人乗りのBo103である。1959年に完成したが、2枚の主ローター・ブレードは強化グラスファイバー製であった。
このベルコウ社が1960年、Bf.109戦闘機などで有名なメッサーシュミット社と合併する。そして1964年、ドイツ国防省の委託によってBo46実験機の初飛行に成功した。このヘリコプターも、きわめて特異な「デアシュミット・ローター」をつけていた。5枚のブレードは、それぞれの半分くらいの位置にヒンジがあって、ローターの回転につれて最大40°の範囲で前後に振れるようになっていた。これでブレードの外側半分は前進側で後方へ振れて先端速度が落ち、後退側で加速されて先端速度が上がる。普通のローターに見られるサイクリック・ピッチ・システムに代わるものだったが、構造が複雑に過ぎて実用には至らなかった。
やがて1969年メッサーシュミット・ベルコウ社はハンブルグの航空機メーカー、ブローム社と合併、3社の名前を取ってMBBが誕生する。
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複合材ブレードの量産化 以上のような先端的な技術経験にもとづいて開発されたのがBo105ヘリコプターである。その開発途中の現場を見せてもらったのは1966年2月のことであった。
当時ヘリコプターの開発は上述のドナワース工場ではなく、もう少しミュンヘンに近いオットブルン工場でおこなわれていた。工場の一角では胴体だけのBo105原型機が、それらしい形を見せ始めたところだった。丸くて小柄な機体を前にして、ドイツ人の技師は5人乗りの小型ながらエンジン2基を搭載する双発機であること、後部には観音開きの貝殻ドアがあって大量の手荷物が積めること、ローターシステムはヒンジのないリジッド方式で操縦反応が良いこと、ブレードはグラスファイバー製で耐用1万時間をめざしていることなどの特徴を説明してくれた。
小型双発という構造は如何にも贅沢だが、1発停止に対する安全性は確かに高まる。それに何よりも素晴らしいと思ったのはブレードの耐用時間で、当時のヘリコプターが金属製ブレードを2千時間程度で廃棄していたのに対し、1万時間も使えるとなればコストが下がるばかりでなく、安全性の向上にもつながる。年間500時間ずつ飛んでも20年間は使えるわけで、その耐用性と安全性は無限といってもいいほどであった。
ちなみに英『フライト・インターナショナル』誌は2003年12月、ライト兄弟から100年の間に航空の発展に寄与した技術のベストテンを上げている。1位から9位まではタービン・エンジン、与圧、GPS,応力外皮構造、油圧操縦装置、スーパーチャージャー、無線航法、ディスク・ブレーキ、自動着陸となっていて、最後にヘリコプターの複合材ブレードが掲げてある。
今ではほとんどのヘリコプターが複合材ブレードを使っているが、少し前までは金属製であった。その前は木と布でつくられていて、安全性に問題があった。そのうえハブの構造が複雑で整備の手間がかかり、費用もかかった。といって繊維状の複合材を均等に編み上げ、堅牢な構造に仕立るのは決して容易くない。
Bo105は初めて、この技術を実用化し、量産にもってゆこうという大胆な計画だったのである。
BO105
軍民両面で成功したBo105 こうしたBo105は、私が工場を訪ねてから丁度1年後、1967年2月に初飛行した。エンジンはアリソン250-C18ターボシャフトが2基。4枚ブレードのリジッド・ローターをつけて、すぐれた操縦性を示した。原型機は合計5機が試作され、エンジンを取り換えたり、ローターブレードの形状を改めたりして5年間に及ぶ試験飛行を重ねた。その結果1972年、250-C20エンジンを装備して量産に入る。
当初は民間向けの多用途機で、ドイツ危機管理庁が防災用に20機を発注した。続いてドイツ陸軍が対戦車機として採用することになる。同機は胴体左右にHOTミサイルを3基ずつ、合わせて6基を搭載、2年間の評価試験によって特殊なフェアリングを加え、尾部を改造し、降着装置を小さくするなどして、最大速度372km/hに達した。これは民間型Bo105よりも100km/hほど速い。さらに胴体左右にスパン6.2mの短固定翼をつけて404km/hを記録している。
こうしたことからドイツ陸軍は対戦車用のBo105(PAH-1)を212機発注し、さらに連絡および観測用にBo105Mを227機発注した。また欧米、中東、アジアの諸国へ輸出され、スペイン、フィリピン、インドネシアではライセンス生産もおこなわれた。日本にも数多く輸入されている。
1982年にはBo105CBSが登場した。アリソン250-C20B(420shp)2基を装備して出力が増加、飛行性能が良くなり、キャビン内部も広くなった。やがて同機はBo105LS(Lift Stretch)に発展する。250-C28C(550shp)2基を装備するもので、エンジン出力が一挙に増加すると共に、トランスミッションも強化され、高温・高地性能が上がり、機外吊上げ能力が増大した。
最近までのBo105の生産数はおよそ1,400機になる。
BO105
BK117を川崎重工と共同開発 MBBでは1977年、Bo105に続いてBK117の開発に踏み切った。この決定に先だつ2年ほど前から、同社では7〜10席のBo107の開発研究が進んでいた。同じ頃、日本の川崎重工業でも7席級のヘリコプター、KH-7の開発研究を進めていて、両社のねらいが同じところからBK117の呼称で共同開発が合意された。
開発資金は両社折半とし、MBBは主ローター、尾部ローター、テールブーム、尾翼、油圧系統、操縦系統などを担当、川崎は胴体、トランスミッション、降着装置などの開発を担当することになった。このうちドイツ側の担当する主ローターや油圧系統はBo105のそれを基本とするものである。エンジンはライカミングLTS-101-650B-1(600shp)が2基。
初飛行は1979年6月13日ドイツ側でおこなわれ、日本でも同年8月10日に飛んだ。型式証明は1982年末。翌年初めから量産型BK117A-1の引渡しがはじまった。以後、数々の改良を重ね、エンジンもチュルボメカ・アリエルに改められた。
1997年からは発達型BK117C-2/EC145の開発もはじまり、機首の形状が変わるなどして、1999年6月12日――BK117の初飛行から1日違いの20年を期して飛行した。日本側でも2000年3月15日に飛びはじめ、2001年秋から量産機の引渡しがはじまった。
BK117の最近までの受注数は、およそ500機である。
BK117
ハイテク技術のEC135 MBBではもうひとつ、1980年代なかばから、Bo105を基本とするBo108の開発が始まった。BK117よりもやや小柄ながら、同機の開発から10年ほど経って、その後の新技術を採り入れたヘリコプターを実現しようというのである。1991年に量産が決まったが、翌92年に仏アエロスパシアル社と合併したことから、EC135と改称されることになった。
機体形状はBO105にくらべて空力的に洗練され、空気抵抗は30%ほど少ない。キャビンも大きくなって7席に増えた。主ローターブレードも新しい翼型と平面形を持ち、必要馬力は8〜10%少なく、燃料消費量も減った。ローターハブは複合材のヒンジレスおよびベアリングレスで、簡潔な構造に変った。重量も50kgほど軽く、部品数も4割減。しかも回転数の変更が可能で、回転を落とすと騒音が小さくなる。
加えて尾部にはフェネストロンを採用、7枚のブレードが非対称的に植えられたことと相まって、機外騒音はICAOの基準を7デシベルほど下回る。
エンジンはアリウス2B1またはPW206Bのいずれかを選択装備することができる。トランスミッションも新しい。コクピットには最新の電子技術が採用された。こうした最新技術によって、EC135はBo105にくらべて有効搭載量が15%増、航続距離は45%増となった。
原型機の初飛行はBo108が1988年10月15日、EC135が1994年2月15日である。以後、原型3機で約1,000時間の試験飛行をして、1996年に型式証明を取得、99年にはパイロット単独の計器飛行も承認された。その後さらにアリウス2B2エンジンを取りつけ、出力が増加して片発飛行性能が大きく向上した。今では全備重量を減らすことなくカテゴリーAの飛行が可能である。
2002年1月28日には光ファイバー操縦装置をつけたアクティブ・コントロール実証機が初飛行した。フライ・バイ・ワイヤに対して「フライ・バイ・ライト(光)」とも呼ばれる。
また軍用機としてもEC635の呼称で、ヨルダン空軍から9機を受注、昨秋までに5機が引渡された。20ミリ・キャノン砲、12.7ミリ機銃、70ミリ・ロケット弾12発などを装備しており、将来は電子戦に使う計画もある。EC635に対しては、ほかの国からも関心が寄せられている。
EC135は2003年秋、量産300号機が完成した。そのうち約100機が救急機として、日本を含む世界各地で使われている。ほかに警察や国境警備にも数多く使われ、災害対策や治安維持に貢献している。最近までの受注数は330機に達する。
今これらのヘリコプターは、ドナワース工場で量産が進み、オットブルン工場でいっそうの改良研究がおこなわれている。
EC135
ユーロコプター・ドイツ社の足跡と各機の初飛行年
年 足 跡 初 飛 行 1936
フォッケ・アハゲリスFa-61
1956
ベルコウ社発足
1959
Bo103
1960
ベルコウ社とメッサーシュミット社が合併
1964
Bo46
1967
Bo105
1969
メッサーシュミット・ベルコウ・ブローム社(MBB)誕生
1979
BK117
1988
Bo108
1990
(東西ドイツ統合)
1992
ユーロコプター社発足(仏アエロスパシアル社と合併)
1994
EC135
1999
EC145
2000
BK117C-2(日本側1号機)
BO105(西川 渉、『航空情報』2004年3月号所載)
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