
<メーカー訪問>
ベル・ヘリコプター社 ![]()
ベル・ヘリコプター社を初めて訪れたのは今から40年余り前、1962年秋であった。入社3年目で、当然のことながら上司のお供である。
その頃は今と違って、自由に外国旅行ができるわけではなく、持ち出し外貨も1人500ドルに限られていた。2人ともにアメリカは初めてという有様で、何か夢見心地の旅行であった。日本に存在しないものも多く、超高層ビル、高速道路、スーパーマーケットなど、見るもの聞くもの驚きの連続だった。おそらく今の若者が初めてアメリカに行くよりも、遙かに大きな感激を覚えたものである。
しかしヘリコプターだけは見慣れていたから、ベル社の工場を見学したときも、普段の延長のようなものだった。もっとも、わが社の保有機は10機に満たないときで、組み上がったばかりのベル47がずらりとテスト飛行場に並んでいるのを見たときは、これだけあるんだからもっと安く分けて貰えないかなどと、当時の貧乏な日本人が考えそうなことを考えた。
もうひとつ忘れられないのは、会社の正面玄関わきに4人乗りのベル47Jが停っていて、われわれを乗せてくれた。ヘリコプターに乗ること自体は商売柄とりたてて珍しいわけではないが、玄関先から飛び立つのはいかにも贅沢な雰囲気であると同時に、テキサスの大平原を上空から見ることができて、アメリカの広大無辺の大きさを感じさせられた。おまけにヘリコプターはそのままダラス市街地へ飛び、保険会社の高層ビル屋上に着陸した。われわれはそこで降りて、当時の日本では口にできないようなテキサス・サイズの巨大ステーキをご馳走になった。
ベル社がテキサスのダラス郊外に工場を置いたのは1951年である。当時この地域は砂ぼこりの中に牛とカウボーイがいるだけの荒れ地であった。精密機械を扱うヘリコプター工場には不適というのがベル社内の意見だったが、創業者のローレンス・ベルは反対を押し切って、荒れ地に杭を打ち込んだ。
それまで、ベル社は1935年の創業以来ニューヨーク州バッファローに本拠を置き、ベル・エアクラフト社として発展してきた。第2次大戦中はP-39、P-69キングコブラなど、日本が悩まされた戦闘機を大量につくり、米国初のジェット戦闘機P-59エアラコメットの開発にも当たった。戦後はNACA(現NASA)との契約によって、史上初めて音の壁を破った実験機X-1をつくり、1947年チャック・イェーガー大尉の操縦でマッハ1.015を記録した。
こうした戦闘機や超音速飛行の対極にあるのが、速度ゼロでも飛行可能なヘリコプターだが、その開発も戦時中、アーサー・ヤングの模型実験によってはじまった。やがて1943年モデル30が飛び、終戦直後の1945年末モデル47の初飛行に成功。翌46年世界初の民間ヘリコプターとして型式証明を取得した。
量産1号機は同年モデル47Bとして出荷される。48年には透明なバブル・キャノピーのついた47Dが誕生したが、これらはいずれも車輪式の降着装置であった。それがスキッド式に変わるのは50年代に入ってからで、47D-1は3座席となった。そして朝鮮戦争(1950〜53年)に際してはH-13の呼称で500機近く採用され、ベル47の地歩が固まった。以来、透明キャノピーと鋼管だけのテールブームは、小型ヘリコプターの典型として世界の至るところで見られるようになった。
ベルX-1その頃ベル・エアクラフト社の内部では、超音速実験機X-1やX-2を担当する固定翼部門とヘリコプター部門とが並行して仕事をしていた。しかし両部門ともに時代の先端をゆく技術を扱っているという自負心が強く、必ずしもしっくりした関係にはなかった。そのうえバッファロー工場が手ぜまになり、従業員のストが頻発するといった問題も出てきた。
そうしたことから1952年ヘリコプター部門はテキサスへ移転し、57年にはヘリコプター専門メーカーとして独立する。この新しい環境の下で、モデル47は47G、G-2、G-3Bと発展し、47Jは1957年初の大統領専用ヘリコプターに採用された。
その少し前、1956年にはXH-40タービン機が初飛行する。同機はHU-1Bとして米陸軍に採用され、1963年にはモデル204Bとして民間向け型式証明を取り、のちに205A、双発型212、214ST、412と発展した。その一方1966年にはAH-1ヒューイコブラ攻撃機へ発展、同機に見られる細身のタンデム複座という攻撃ヘリコプターの形式を生み出したのもベル社である。
同じ頃、206Bジェットレンジャーが誕生した。1966年に初飛行し、同年中に型式証明を取得、67年初めから量産機の引渡しに入る。その胴体を延ばした206Lロングレンジャーが飛んだのは1974年である。
それから2年後、1976年には中型双発モデル222が飛び、のちに230、430へ発展した。最近では、新しいモデル407単発機が1995年、427双発機が97年に初飛行し、今も量産がつづいている。
この間、1980年代なかばから、カナダのモントリオール郊外にミラベル工場を建設、民間機はそこで生産することになった。その1号機、206B-3が出荷されたのは86年である。
ベル社がいま社運を賭けて努力しているのは、ティルトローターの開発である。いうまでもなく、ヘリコプターのように垂直に離着陸し、巡航中はローターを前方へ傾けてターボプロップのような高速・長航続の飛行性能を発揮する。
その構想が具体化したのは早くも1955年、XV-3実験機が初飛行したときであった。同機は固定翼の両端に3枚ブレードのローターをつけ、胴体内部にP&W R-985星形ピストン・エンジン(450馬力)1基を収めていた。そこから長いドライブシャフトを介して出力が伝えられ、ローターを駆動する仕組みである。
この初期の実験機が振動に悩まされながら、こまかい手直しを繰り返して試験をつづけ、ヘリコプター・モードから飛行機モードへの転換に成功したのは1958年暮れのことである。それから10年後、1977年にNASAと米陸軍との契約の下にXV-15実験機が飛び、徹底的な試験飛行によってティルトローターの実用性を実証した。
その結果、米3軍の共同計画として垂直輸送機JVXの開発がはじまる。1983年のことで、以来今日まで20年間V-22オスプレイとしてボーイング社との共同開発がつづいている。この間、一時は実用段階に達したと見られ、1999年から海兵隊向け量産機の納入がはじまった。
ところが翌年、訓練中に2件の死亡事故が起こる。全機飛行停止となって、原因究明と不具合部分の改修がおこなわれた。この間さまざまな論議が交わされ、オスプレイ計画それ自体の存続も危ぶまれたが、2002年5月飛行再開にこぎ着ける。もっとも、再開されたのは実用飛行ではなく、改めてティルトローターとしての基礎的な試験や安全性に関する再確認をするためであった。この試験飛行は2003年秋までに完了し、実用段階へ進む予定で、すでに量産準備もはじまったところである。
これに続く民間向けティルトローターBA609は、先月号で取り上げたアグスタ社と共同で開発作業が進んでいる。今年3月に初飛行したばかりで、2007年までに型式証明を取る予定という。
こうして、およそ70年の足跡から見たベル社の特質は、やはり先端技術に対する果敢な挑戦であろう。メーカーの多くは、最初は大企業の下請けに始まり、やがて実力をつけて独自の製品を生み出すようになる。それが成功するかどうかは別として、牛後となるより鶏口となりたいのは誰しも同じこと。それに成功すれば、最先端を突き進む牛の角にもなろう。
ベル社の場合も初めは先進メーカーの下請けとして戦闘機の部品づくりに始まった。しかし、すぐに頭角をあらわし、独自の戦闘機をつくりはじめるや、10年余りで史上初の超音速機にまで達した。
ヘリコプターは独自の開発から始めて、モデル47、204、206と、いずれのシリーズも1万機前後の記録的な生産実績をあげるに至った。
さらに、そうした開発経験にもとづいてティルトローターへ向かい、最初のXV-3実験機が飛んだのは、これもヘリコプターを始めてほぼ10年後であった。それがXV-15実験機を経て、米政府との契約にもとづく軍用ティルトローターV-22へつながる。そしてすぐ、その技術を応用して史上初の民間向けティルトローターBA609の開発に向かった。
垂直飛行は、40年前に見たあのテキサスの大地と同様、広大無辺の可能性をもつ。その無辺のかなたへ向かって、ベル・ヘリコプター社の企業努力は今後も拡大を続けるのであろう。
ベル社の足跡と各モデルの初飛行年
1935:
ベル・エアクラフト社発足(ニューヨーク州)
1937:
独自のXFM-1戦闘機を開発
1938:
P-39エアラコブラ
1942:
米国初のジェット機P-59エアラコメット
1942:
P-63キングコブラ
1943:
モデル30
1945:
モデル47
1947:
モデル47に史上初の民間型式証明
1947:
超音速実験機X-1音の壁を突破(最高速度マッハ2.44)
1951:
X-5可変翼機
1952:
テキサス州へ移転
1953:
HSL-1タンデム・ローター機
1956:
XH-40
1957:
X-14
1957:
ベル・ヘリコプター社として独立
1959:
米陸軍へUH-1の納入開始
1960:
ベル・ヘリコプター・テキストロン社となる
1965:
209ヒューイコブラ(現AH-1)
1966:
206Bジェットレンジャー
1974:
206Lロングレンジャー
1976:
222
1977:
XV-15
1989:
V-22オスプレイ
1995:
407
1997:
427
2003:
BA609
(西川 渉、『航空情報』2003年10月号掲載)
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