<メーカー訪問>

ボーイング・ヘリコプター社(2)

 

 先月号につづいて再びボーイング・ヘリコプター社を訪ねたい。今回は同社のメサ工場で、ここはアパッチ攻撃機を製造しているが、これが昔のヒューズ・ヘリコプター社につながるからである。

 場所はアリゾナ州フェニックスに近い。フェニックスはゴルフで有名だが、それが毎年1月におこなわれるのは、猛暑のせいであろうか。15年ほど前、メサ工場を訪ねたときは6月の初めだったが、気温は40℃を超えていた。一通りの工場見学が終わり、昼食もすんだ午後になって「メサの名所を案内しよう」と砂漠に連れて行かれた。

 砂漠といっても起伏のひどい荒れ地で、電柱のような背の高いサボテンが立ち並び、冷房をかけた車は砂礫の坂道を暑さにあえぎながら走った。降りてみますかといわれて、しばらく炎天下に立ってみたけれど熱射病で倒れはせぬかと思ったほどである。

 十数年前の湾岸戦争と先日のイラク戦争でも、中東の砂漠の中で熱と泥と砂にまみれて飛んだアパッチ攻撃機は、同じような自然環境のアリゾナで生まれたヘリコプターであった。

史上最大のスプルース・グース

 ヒューズ・ヘリコプターの発端はハワード・ヒューズにさかのぼる。石油掘削器を製造するヒューズ・ツール社のオーナーとして、企業家であり、経営者であるばかりか、飛行家、映画監督、プロデューサー、プレイボーイといった多彩な顔を持つ人物である。最後はラスベガスの大部分を買い占める大金持ちであり、また夢想家、奇人、狂える天才などともいわれた。

 彼は1905年テキサスに生まれ、14歳で飛行機の操縦をおぼえた。1923年には父の跡を継いでヒューズ・ツール社のオーナーとなり、30年代にヒューズ・エアクラフト社を設立した。ここで最初に手がけたのがスピード競技に使うH-1レーサー機で、有害抵抗を減らすために機体形状を流線形にしたばかりでなく、引込み脚、枕頭鋲、密閉風防など独自のアイディアを凝らし、当時としてはきわめて先端的な飛行機であった。

 1939年には大手航空会社TWAの筆頭株主となる。そしてロッキード社にコンステレーションを発注し、その設計と開発にもたずさわった。

 ヒューズのつくった飛行機の中で最も有名なのは巨大飛行艇「スプルース・グース」である。全長67m、主翼スパン98m、高さ24mと、今も史上最大の記録を持つ飛行機で、エンジンはワスプ・メイジャー(3,042hp)が8発。初飛行は1947年11月2日ロングビーチの海岸で、ヒューズみずから操縦桿をにぎっておこなわれた。水面を離れた機は高度21mまで上昇し、1,600mほど飛んで1分後に着水した。この間の最大速度は129km/hだったが、この初飛行が最後の飛行でもあった。

 スプルース・グースはそのまま半世紀ほどロングビーチの港につながれていた。筆者もこれを見て圧倒された覚えがあるが、数年前エバグリーン・ヘリコプター社が買い取ってオレゴン州ポートランドに運び、現在は同社の航空博物館に展示されている。


巨大なスプルース・グース

ヒューズ300と500

 ヒューズ社が初めて開発し量産したヘリコプターはモデル269。左右2人乗りの小型機で、キャビンは透明なプラスティック風防に覆われ、細い棒のようなテールブームの先に尾部ローターがついていた。主ローターは3枚ブレード。初飛行は1956年10月、当時ヒューズ社の工場があったロサンゼルス郊外のカルバーシティでおこなわれた。

 同機は試験飛行を重ねて、1960年から量産に入った。63年には毎月20機の生産数に達し、64年米陸軍がTH-55Aの呼称で訓練機として採用した。陸軍の調達数は69年まで792機に上っている。

 やがて269はモデル300と改称され、座席数も最大3席になった。米空軍もこれを採用し、米国外でも多くの国に売れた。日本では川崎重工業が300Cとしてライセンス生産している。現在では製造権がシュワイザー社に移り、2003年からは中国でもライセンス生産がはじまった。

 1960年には米陸軍が軽観測用ヘリコプター(LOH)の競争開発をおこない、それに応えたメーカー12社の中からヒューズ369が採用された。OH-6がそれである。同機はやがて民間向けモデル500になり、1980年代にはノーター機へ発展する。

 これらのノーター機は現在MD520N(5席)、MD600N(8席)、MD902エクスプローラー(8席)としてオランダ資本の下に生産が続いている。ノーター機の詳細は別の機会に取り上げることにしたい。

アパッチ攻撃機を開発

 話は戻るが、ハワード・ヒューズが死去した1976年、ヒューズ・エアクラフト社のヘリコプター部門は、独立してヒューズ・ヘリコプター社となった。さらに同年、米陸軍との間にアパッチ攻撃ヘリコプターの本格的な開発契約が成立する。

 開発はベトナム戦争の教訓にもとづき、昼夜間の戦闘能力、精密攻撃能力、高い生存能力を求めて進められた。原型YAH-64の初飛行は1975年9月30日。その翌日ベルYAH-63も初飛行する。この両機は米陸軍のAAH(発達型攻撃ヘリコプター)開発競争に応じて2機ずつ試作されたもので、飛行審査の結果ヒューズが勝ち、1976年末AH-64の開発が決まった。

 これにより、AH-64はテスト用3機が追加され、5年間にわたる飛行試験と改良改修がつづけられた結果、1982年米陸軍との間に量産契約が成立した。翌83年そのすぐれた設計にコリア・トロフィー賞が贈られ、84年から栄光に包まれて量産が始まった。

 特徴は、細い機体の前方コクピットに乗員2人が前後に乗り組み、前席に副操縦士兼射手、後席に操縦士がすわる。キャノピーはフラット。総重量は約10トン。チヌークにくらべると半分程度だが、ベルAH-1攻撃機の2倍に近く、シコルスキーH-60ブラックホークに匹敵する。

 主ローターは4枚ブレード。23ミリ弾を受けても30分の飛行ができる耐弾性をもつ。尾部ローターは真っ直ぐな2枚2組のブレードを離して取りつけ、120°と60°のオフセットになっている。これで各ブレードの渦流を次のブレードが叩くのを避け、騒音の発生が抑えられる。

 戦闘任務としては偵察と攻撃の両方を同時にこなす。そのため昼夜間の全天候能力を有し、強力な重火器に加えて運動能力が高いことから戦場での生存性も高く、地上部隊の支援能力にもすぐれている。火器はミサイル16基と70ミリ・ロケット弾76発、30ミリのM230機関砲弾が1,200発。

 最大速度は308km/h。エンジンはT700ターボシャフト(1,900shp)2基を装備する。シコルスキーH-60と同じエンジンなので、戦場での補用部品や技術支援が有利になる。

 当初の量産型AH-64Aは1989年パナマ進攻作戦で初めて実戦に参加、ほとんどが夜間戦闘だったために、他に見られない能力を発揮して、反政府軍を攻撃した。また91年の湾岸戦争では「砂漠の嵐」作戦で多大の戦果を挙げた。その餌食となったのは、戦車500台以上と装甲車、トラック、その他の地上車輌数百台に及ぶ。

アパッチ・ロングボウへ発展

 アパッチの量産が始まった1984年、ヒューズ社はマクダネル・ダグラス社に吸収された。そのマクダネル・ダグラス社も1997年、今度はボーイング社と一緒になり、アパッチもボーイングAH-64となった。

 この間、アパッチはローター・ブレードの改良に加えて、ロングボウ火器管制レーダーやヘルファイヤ・ミサイルを装備、敵の存在を素早く探知、識別し、攻撃することができるAH-64Dへの改良計画が進んでいた。その評価試験のために、ボーイング社は6機の原型機をつくり、すぐれた戦闘能力を実証した。

 この中で、戦場のさまざまな状態を想定してAH-64Aと比較しながら射撃テストをおこなった結果では、命中精度が5倍、生存性は8倍以上となった。また戦場をレーダーでスキャンし、128の目標を探知、その中から最も危険と思われる16の敵目標を識別し、優先順位をつけて、味方僚機にも情報を送りつつ協同して精密攻撃に移るわけだが、この一連の作戦行動を30秒以内におこなうことができるという。

 こうして完成型のロングボウ・アパッチが初飛行したのは1993年8月20日のことである。電子装備が一新され、ミリ波レーダーを搭載して、戦闘能力は一段と高いものになった。なおレーダーをつけていないものはAH-64Dアパッチ、レーダーをつけているものはAH-64Dアパッチ・ロングボウと呼ばれる。

 レーダーつきのロングボウ1号機が米陸軍へ引渡されたのは1997年。99年3月30日には1,000機目のアパッチが米陸軍に引渡された。このうち937機はAH-64A。あとは新しいAH-64Dだが、2001年末までに米陸軍のAH-64Dは232機になった。

アパッチのサバイバビリティ

 AH-64DはC-5A大型輸送機に6機ずつ搭載し、世界中どこへでも迅速に展開することができる。2003年イラク戦争に際してもいち早く戦場におもむいたが、敵の攻撃も激しく、AH-64Dの生存性に疑問が投げかけられる場面もあった。というのは地上からの対空火器によって30機以上のAH-64Dが傷ついたからである。そのうち1機は2003年3月末バグダッド南方で撃墜された。

 ただし、これらの機体や乗員は全て回収され、ボーイング社の推定では1,000回以上の出撃をして、死者は1人も出ていないという。また湾岸戦争の当時、生存性(サバイバビリティ)の基準としては「30機が敵弾を受けた場合、29機の乗員が帰還すること」となっているから、この基準にも適合する。

 アパッチの生還率を高めるためには幾重もの対策がほどこされている。第1は広範囲のセンサーと火器システム。第2はレーダーおよび赤外線の妨害システムで、これにより敵ミサイルの攻撃から身を守ることができる。

 第3は敵弾を受けた場合の防護装置。操縦席は装甲板で保護されており、コクピットは前後の座席の間に防護壁があって、敵弾が一方に当たっても乗員2人が同時に死ぬようなことはない。また撃墜されても、墜落時の衝撃が吸収されるといった特性を持つ。

海上自衛隊もアパッチを採用

 AH-64アパッチは米陸軍ばかりでなく、米国外の軍にも採用されている。オランダはAH-64Dを30機発注し、1998年6月から引渡しがはじまった。英国もウェストランド社で生産するWAH-64を67機調達する計画で、98年9月から引渡しに入った。またシンガポールも8機のAH-64Dの購入を予定している。

 そして日本も2001年8月、陸上自衛隊の次期攻撃ヘリコプターとしてAH-64Dの採用が決まった。総数約80機を調達する計画である。うち10機は現中期防で2006年3月末までに納入の予定。すでに2002年度と03年度で2機ずつの予算が計上されている。1機あたりの価額は約40億円。

 ボーイング社は今後なお、2020年頃までに総数600機以上のAH-64Dが国外へ売れると見ている。さらに米陸軍からも518機の需要を見こみ、すでに300機分の契約交渉がはじまった。

 その内容は、米陸軍が「ブロック3」と呼ぶ次世代の近代化計画で、今のロングボウ・ヘリコプターにいっそう高い戦闘能力を持たせることとし、2005年度からの開発開始を目標にしている。

 こうしたアパッチ攻撃ヘリコプターを見て、佐貫亦男先生は昔「舌切り雀」の欲張り婆さんが大きなつづらを背負っているような恰好と評した。機能一点張りの、なりふり構わぬ形状ということであろう。まさにその通りで、アパッチの欲の深さは今も衰えることなく、将来に向かってますます深まり、いっそうの機能強化へ向かうかに見える。

西川 渉、『航空情報』2003年12月号所載)

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